日々のたより

 30年来の友人、加藤哲夫さんが亡くなった。「826日零時半永眠」と、発起人でもあり、代表理事を務めた仙台・宮城NPOセンターのホームページで知った。

そのひと月ほど前、ホスピス病棟に入ったと携帯にメールが届き、焦って仙台の病院に駆けつけた。”絶不調、絶不調”を口癖にバリバリ仕事をこなし、全国を駆け回っているときもガリガリに痩せていたが、ベッドの上でさらに骨に皮が貼りついたようになりながら、全方位に脳内ネットワーク張り巡らせ、3倍速の話しぶりという哲ちゃんらしさ健在に、「テツはテツだわ」と笑ってしまったほどだったのに。残り少ない命の炎を燃やし尽くそうとしていたんだなと、いまは思う。

私が雑誌『自然食通信』の創刊準備「0」号を出した1981年の春、哲ちゃんは仙台でカタツムリ社という出版社をを起こしたばかりで、「準備号」を見たからと、生まれてまもない息子を背中におぶって事務所を訪ねてきてくれた。それが初めての出会い。
 レイチェル・カーソンが著書『沈黙の春』で警告したことが、ものすごいスピードで現実のこととなり、全国の農村で毒性の強い農薬で命を落としたり、失明するといった事故が頻発、国策企業チッソの有機水銀垂れ流しが水俣病を引き起こすなど、この小さな列島が公害にまみれていったのは60年代後半から70年代にかけてのこと。
 農薬や化学肥料に頼らない健康な土と農業と食べものを取り戻すために作物を栽培する農家も食べる人も手を携えての「有機農業」提携運動のネットワークが各地で起こり、80年代に入ってようやく私も、創刊した雑誌に「食べものと暮らしをあなたの手に」のことばを刻んだ。

ほどなく哲ちゃんもエコロジーショップ「ぐりんぴいす」の経営を始めた。「食べものの歪みから見えてくるのは私たち自身の暮らしの歪み」と知ったところから、隣の他者と繋がれる、そして国や企業に要求するばかりでなく、私たち自身が暮らし方、生き方を変えるには1歩踏み出す(それこそが行動)ことと、疑問に思うこと、知らされないでいることを自分たちで調べ、他者と結びつきながら大きな声にしていきたいという思いを私は小さな雑誌に託し、哲ちゃんは、ぐりーぴいすという店を「定点観測拠点」と位置づけて、人と人が出会い、繋がる「場」にしようとしていたから、「ミニコミ雑誌」と「エコロジーショップ」は小さくても自前のネットワークが地域に根づくよう、情報交換しつつ、それぞれ「いつ休んでいるかな」と自分に聞いてみたくなるようなフル稼働態勢に突入していった。

品切れ

そして、85年の「自然食通信」26号から「仙台発BOOK NEWS」の連載も始まった。しばしば「きょうも絶不調」の書き出しで、「本について語るのは自らを語ること」と、毎号20冊近い本を「食と農」「エコロジー、市民活動」「原発とエネルギー」「エイズ」「にゅーえいじ」など多彩なジャンルを縦横にさばきつつ、同時に自身の「活動と仕事と思考のプロセスの貴重な記録」ともなった超絶連載は雑誌休刊まで11年続くことに。後半以降は特に、下版直前まで原稿がはいらないことはざらで、ひやひやしたけれど、届けば鮮度抜群、鋭いセンスの本選びと読み解く感度のよさでこちらも最初の読者になれる楽しみを逃したくなく、崖っぷち編集をなんとか乗り切ったものだったと、皮膚の下が擦れて熱くなるような感覚と共に思い出す。
 3か月後、秋田の無明舎出版から単行本『加藤哲夫のブックニュース最前線』なって送られてきたが、あまりの早さと、2段組、背幅3センチ近くにもなっていたのに驚いた。帯文には「700冊」とあり、これにも驚愕!

こちらが雑誌をやめて、単行本のみになって2年後くらいだったか、哲ちゃんも「ぐりんぴーす」を閉じたことを、どこからか伝え聞いた。「定点観測」的立ち位置から方向転換し、NPO(民間非営利組織)の法制化に向けての活動、市民活動のネットワークづくりに全国を飛び回っているとと言っていたけど、4年ほど前、東京で会ったときにも「全県走破したよ」という話に、「うわぁ、以前にもましてアドレナリン全開だ!」などとこちらは感心するばかりだった。

昨年11月に、突然手紙が届き、「膵臓がんの手術をしました」とあり、不安な気持に襲われたが、語り合う間もなく、疾風のごとく天へと駆け上っていってしまった。

さよなら!テツ。ゆっくりお休み。(よ)